Close
ad-image
密貿易で資金を捻出!? どうみてもマフィアな薩摩藩の大借金返済計画

密貿易で資金を捻出!? どうみてもマフィアな薩摩藩の大借金返済計画

薩摩藩といえば、我らが西郷どんをはじめ、大久保利通や大山巌ら明治維新の中核を担った人たちが多く生まれた場所です。西郷らのひと世代前で言えば、13代将軍徳川家定の妻となった天璋院篤姫のパパであり幕政においても頭角を現していた島津斉彬のような人材を輩出。薩摩藩という組織は、一見、政治的にも経済的にも当時の最先端をいっていた……と思いきや、実はそうでもないようで。研究者によると、なんとブラック企業やマフィアさながらの暗黒面を持っていたというので、ちょっくら調べてみました!

奄美大島に押し付けた恐怖の薩摩ルール

西郷隆盛がかつて流罪になった奄美大島に取材に行ったと話すと、「お土産に黒糖焼酎買ってきてくれると思ったんだけどなー?」なんて、ふてぶてしく嫌みを言う悪友がいたりするのはさておき、奄美といえば黒糖というイメージは全国的に広がっています。
ほかにも大島紬やハブ革を使った小物など、奄美の名産品は数あれど、やはり黒糖は頭ひとつ抜け出た存在。今も昔も、奄美大島を語るうえでは避けては通れないのが黒糖なのです。実はこの黒糖がもとで、奄美大島、薩摩藩に虐げられてしまう過去がありました。
奄美大島が琉球とともに薩摩藩に征服されてしまったのは1609年のこと。西郷が生まれる約220年も昔のことです。薩摩藩は、奄美大島を直接支配するため代官所や、奉行所を置き、薩摩ルールを押し付けました。

ワルい大人たちが考えそうな独占販売

そのルールとは「大型船を作って勝手に貿易するの、ダメだからね」とか「琉球と勝手に取引するんじゃねーぞ」といった、大企業が下請け会社を丸囲いするかのようなもの。
しかも1690年ごろからは、上方(大坂)の市場で黒糖が高く売れることに気づき、「黒糖はいい金づるだから、俺たちが直接管理しようぜ」と傲慢な権利主張をしたのでした。怖い、怖いぞ、初期薩摩藩!
もっとも最初のうちは奄美大島でも稲作ほか作物の栽培が盛んにおこなわれていたので、島民たちも自分たちの食い扶持が稼げるのであれば、「親会社が言うんだから、下請けとしては仕方ねえな」というような程度だったようです。

250年ローンでの借金返済プロジェクト

ところが、幕末近くになると、ただでさえビンボーだった薩摩藩が、ますますビンボーになっていきます。8代藩主・島津重豪のころ、500万両(計算方法にもよるが現在価値で5000億円とも、1兆円とも言われている)という、考えられないような大借金を抱えてしまっていたというから、完全にどん詰まり状態。
それなのに重豪さんときたら、ますます借金を重ねようとしてしまうので困ったもの。「薩摩は野蛮な奴らだと江戸で笑われたぞ! 笑われないようハイセンスな人材を育てるのだ!」と学校を作ったり、海外から書物や最新機械を買い入れるなど、次々と出費を重ねるのでした。そんな中、桜島が大噴火し、まるでローン組んだばかりの家が火災保険に入っていない状態で丸焼けになるようなトコロまで、行ってしまいます。
困り果てた重豪さん、調所広郷という腹心に、とんでもない命令を下しました。それは「借金を踏み倒しちまえ」というもの。もうマフィア真っ青です。サツマフィアです。とはいえ、さすがに完全に踏み倒すというわけにもいかないので、250年かけてコツコツ返す(ただし利子はなし)ようにしたのでした。
ちなみに、調所が家老に出世してこの改革(ふみたおし)に着手したのが1838年のことなので、そこから250年というと……なんと返済完了は2088年! 2018年の現時点から、さらに70年もあと! 貸した側の商人からすると、イエローカードを出しつくして為す術もなく白い旗を掲げるでしょう。間違いなく。

島民が次々と債務奴隷と化していく

もっとも調所は行政改革や農業改革といったまっとうな改革もしていたのですが、その裏で琉球と手を組み、清との間で密貿易も盛んに行いました。商人の意識を外にそらさなくてはいけないので、超長期ローンを認めさせる代わりに、藩自ら密売の手引きをしてあげるというのが主な理由だったよう。
調所は、さらに奄美の黒糖に目を付けます。当時、藩の収入の多くを占めていたのが黒糖だったので、奄美大島・喜界島・徳之島という奄美三島で黒糖を搾り取れるだけ搾り取るという方針を打ち出しました。あまりに過酷な内容なので、優しい口調のセリフでまとめてみます。
「田畑はすべてサトウキビ畑にしてね。米は売ってあげるから……超高額でね」
「1分1秒を惜しんで黒糖を作ってね。だからお祭りとかのイベント系禁止だよ」
「もちろん休みとか普通にあると思ってたりしないよね?」
「島民はちょっとでも黒糖食べたらお仕置き程度ではすまさないからね」
「お役人様は神様だから、仕事以外のことでも何でも言うこと聞かなきゃ困るな」
今ならば完全に訴えられてもおかしくない内容、もはやこれはレッドカードでしょう……。こうして奄美大島で増えてしまったのが、ヤンチュ(家人)と呼ばれる“債務使用人”でした。お金がない島民は、仕方がなく日々の生活費を比較的裕福な家から借りて生活しますが、返済が滞ると、やむなくその家のヤンチュにならざるをえなかったのです。
さらにヤンチュが増えると、ヤンチュ同士で結婚する機会が多くなり、その子供はヒザ(ヒダともいう)と呼ばれました。このヒザは、生まれながらにして使用人であり、一切の自由が禁じられているという、もはや奴隷以外の何ものでもなかったのです。一番多いときで、島民の半数近くがヤンチュとヒザになっていたというから、サツマフィアの容赦ない支配の恐ろしさがうかがい知れますね……。

西郷が背負った島民の血税

我らが西郷さんも、流罪で島に流されたとき、こうした島の現状を見て奮起。役人に直訴するなどして、島民を救おうとも試みましたが、いち流罪人と藩との間ではなんともなりません。ひとつだけ救いだったのは、ヤンチュの家主が自家の使用人を大事にしていたことだったそう。奄美「西郷塾」の安田荘一郎さんが、島に伝わる歴史を振り返ってくださいました。
「使用人が減ってしまうと家主自体が定められた量の黒糖を収められなくなってしまいますから、使用側はヤンチュやヒザを割と大事に扱っていたと伝わっています。ヤンチュもヒザも同じ島民ですから、助け合いの精神もあったのでしょう。食べ物や住む場所もきちんと保障されていたようですし、ヤンチュ同士が集まってお酒を飲む機会もあったそうです。そうした実情を見て、島民の明るさに西郷さんが心打たれたという逸話も聞いたことがあります」
木樽に入った黒糖をエンヤコラと大坂へ運び独占販売をしていた薩摩藩。1840年には200万両を超える貯金まで作ったという驚くべきハイペースで借金を返済した薩摩藩。調所を追い払った島津斉彬の号令のもと、この資金を元手に武器の近代化や産業改革を行った薩摩藩。
実際に奄美をその目で見てきた西郷さんとしては、どんな気持ちでこの軍資金を使っていったのか……。西郷さんのことですから、薩長同盟や江戸城無血入城など、華々しい活躍の裏で「島民の血税だから、誠実に大事に使うでごわす」という、どこかの国の政治家に聞かせたいような“思い”を背負っていたのかもしれませんね。

2回目の登場。藩主久光様。彼や兄の斉彬の”改革”は先人のこういった「蓄積」の上に成り立っていたのでした。

取材・構成/新田哲嗣

構成作家・シナリオライター・演技コーチ。
コミックやゲームのシナリオから舞台・映像の演出、俳優育成のための演技レッスン、ビジネスパーソン向けの魅力開発ワークショップ等々、ビジネスからエンタメまで幅広い分野を手がける。『B型女の取扱説明書』(著作)、『出口汪のマンガでわかる すごい! 記憶術』『出口汪のマンガでわかる 論理的に話す技術』、高校生向け金融知識・FP技能士啓発図書『飛び立て!未来』(シナリオ)などを刊行。https://www.nitta-akitsugu.com/

Close