ニッポン各地の多様な名産品から「レアニッポン」が厳選&紹介する連載「ニッポンの名産地」。第5回となる今回は、福井県鯖江市の眼鏡フレーム産業を取り上げます。今日、世界的にも知られる眼鏡の一大生産地「めがねのまち さばえ」は、隣接の福井市と合わせ、国産眼鏡フレームのなんと約96%を生産。と聞けば、眼鏡好きならずとも興味をもってしまうのでは?
この記事は特集・連載「ニッポンの名産地」Vol.5です。


眼鏡が発明されたのは13世紀後半のヨーロッパで、一説に史上初の眼鏡は1284年のイタリアで発明されたとも。日本に伝わったのは15世紀頃との説もありますが、確実なところでは16世紀半ば、かの宣教師フランシスコ・ザビエルが来日時に眼鏡を紹介しています。また、江戸時代初期には水晶玉の職人らがレンズ作りを始めています。
国産眼鏡の本格的な生産は明治に入ってからのことで、1905年には現在の福井市で眼鏡フレームの製造が始まり、豪雪に見舞われる農閑期の副業として、この地域に定着(詳細は後述)。そして、第二次世界大戦前には東京、大阪と並ぶ眼鏡フレームの一大生産地へと成長しました。
戦争で焼け野原となった両都市に対し、戦災を免れた福井の地は国内随一の生産地となり、需要が集中。そして今日、鯖江は隣接する福井市とともに、イタリア北東部の町ベッルーノ、中国東部の浙江省温州(これらにフランス東部のジュラ県を加える場合もある)と並ぶ、世界有数の眼鏡産地として、その存在が世界的に知られるところとなりました。
福井県産眼鏡フレームの、国内製造シェアは約96%! 他の地域を圧倒する生産量を誇っているのです。そして、その生産の中心地である鯖江には、市内各所に眼鏡関連の数多くの工場が点在。意外にも生産工程が多い眼鏡フレームですが、同地では各工程、各パーツ別に分業体制を敷くことで、地区全体をひとつの大きな工場のように見立てた運営がなされています。

鯖江市は古代から漆器作りが盛んで、鎌倉時代に誠照寺の門前町として発展。江戸時代には鯖江藩の陣屋町として栄え、明治に入ると全国有数の養蚕産地にも。と、そんな鯖江の眼鏡産業の始まりは、ひとりの人物によってもたらされました。
その人物とは生野(現・福井市生野)の豪農に生まれ、生野の村会議員も務めた実業家・増永五左衛門氏(1871~1938年)。彼はあるとき、大阪に出ていた弟から眼鏡フレーム製造の情報を聞きつけました。そして大阪から眼鏡職人を招いて、若者らにその技術を学ばせると、1905(明治38)年、現・福井市で眼鏡フレームの生産を始めました(これが現在の増永眼鏡の前身です)。
地域の発展に尽力する五左衛門氏が眼鏡作りに着目したのは、豪雪に見舞われる同地での農閑期の副業として、少ない初期投資で現金収入が得られることと、当時、活字文化が広がりつつあったことから、眼鏡の需要が増すであろうとの先見の明によるものでした。そこで、彼は技術を習得した者を親方とし、周辺地域で職工グループを組ませて独立させることで、今日に続く分業体制の基礎を築きました。
第二次世界大戦後、眼鏡の需要がさらに高まると、鯖江ではセルロイドフレームやサングラスなどの生産が盛んになりました。また、1983年には同市において、史上初となるチタンフレームの量産化に成功。これが、眼鏡フレームの一大産地としての鯖江の名を国際的なものに押し上げました。
平成に入ると長引く経済不況に加え、安価な海外品の輸入により、鯖江を取り巻く環境は悪化していきます。そこで品質のさらなる向上を図るとともに、従来のOEM生産主体からの脱却を図るべく各社がオリジナルブランドを立ち上げ、また、2003年には産地統一ブランド「THE291」もスタート。こうした努力もあって、「ジャパンメイドの眼鏡フレーム=高品質」との認識が定着しつつあるのです。
鯖江では就業人口の6人にひとりが眼鏡関連の職に従事していると聞き、これまさに同市のキャッチフレーズ「めがねのまち さばえ」が示すとおりであると実感します。しかも、近年ではチタン加工の高い技術力を医療機器や電子機器などの生産に活かすなど、新たな試みも始まっており、こうした同市の挑戦が再注目されているのです。


編集・取材協力/
谷口眼鏡
ボストンクラブ
めがねミュージアム
構成・文/山田純貴
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